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視聴覚教育時報 平成21年12月号(通巻656号)index

◆私のことば コメニウス「世界図絵」の訓え/市川 昌(江戸川大学名誉教授)

◆キーパーソンに聞く 「多メディア時代の映像づくりを考える ― ”地域の絆“ を再生する映像制作活動―」東京情報大学教授 伊藤敏朗 氏

◆えすけーぷ

◆私のことば コメニウス「世界図絵」の訓え/市川 昌(江戸川大学名誉教授)

 「人間は互いに善であるようにつくられています。それ故に親切であるべきです。愛しなさい。そうすればあなたも愛されるでしょう。そして睦まじくて、おだやかな、互いに愛し合う雉鳩のように、相互に友情が生まれるでしょう。」これは1658年チェコの教育学者コメニウスが、映像で視覚的に理解させるため作った絵入り教科書にある言葉です。コメニウスは視聴覚教育の祖として知られ、1592年プロテスタントとカトリックの宗教戦争が続くモラヴィアとスロヴァキアの国境近くの村に生まれました。彼がより良く教えるための教授学と、知識のコミュニケーションを求める汎知学に生涯をささげ、心に響く言葉の意味を誰にも理解しやすい絵で教えようと努めたのは、未来の子どもたちに少しでも良い教材を与えたいという一心だったといわれます。

 教育テレビが昭和34年1月10日に放送されてから50周年になりますが、私は開局最初の教育番組「教師の時間」理科実験のコツのディレクターでした。大学時代に学んだコメニウスの思いである「わかりやすく、おもしろい」教育をしたいという願いは青年時代からの夢で、結果がなかなか伴わない悩みを持ち続けました。その後教員になっても未だに近づけない課題です。今はコンピュータ工学が発展し、飛躍的に制作技術は向上し視聴覚教材や教育番組の表現方法は豊かになりましたが、心に響く魂の籠った内容と言葉になかなか出合えないもどかしさを感じます。秋にNHK日本賞教育コンテンツ国際コンクールに参加し、世界各国から来日した教育番組制作者の何人かと話し、マルチメディア技術の研究は発展しても、子どもたちを感動させる中身であるコンテンツづくりに結び付けるには多くの壁があることが共通の悩みでした。21世紀は「こころの時代」といわれますが、心に響く教材をいかにつくるかは未だ道遠く方法も不透明のままです。コメニウスの「世界図絵」の原点に戻り、心に響く言葉を伝える意味を再考してみたいと思います。

◆キーパーソンに聞く 「多メディア時代の映像づくりを考える ― ”地域の絆“ を再生する映像制作活動―」東京情報大学教授 伊藤敏朗 氏

伊藤敏朗氏 : 略歴
 1980年 東京農業大学農学部を卒業後、同大図書館視聴覚センターに勤務。1988年 同じ学校法人の東京情報大学(千葉市)に異動、教育研究情報センター事務主任、1994年 事務長。2000年 同大情報文化学科専任講師、2009年 日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了・博士(芸術学)、2009年〜現在 東京情報大学情報文化学科教授。2004〜2006年 千葉テレビ『情報大ステーション』制作統括。2008年〜現在
(社)日本ネパール協会理事。著書 :「市民メディア活動〜現場からの報告」(共著)(2005年中央大学出版部)ほか

【インタビューに当たって】
 (財)日本視聴覚教育協会主催の自作視聴覚教材コンクールをはじめ、各地で行われる自作ビデオ映像コンクールなどに、多くの自作による地域映像作品が寄せられている。しかし、中には、映像を通じて訴えようとしている作者のメッセージが伝わってこないものもある。それだけに、ひとつの「映像作品」を作ることの意味や背景、そして映像で伝えたい思いやメッセージをどう構築し、表現するにはどうしたらよいか、しっかりと理解する必要があるのではないだろうか。
 大学で地域映像番組の制作指導に取り組まれ、また、ネパールでの映画制作も手がけておられる東京情報大学の伊藤教授にお話を伺った。

(松田)先日、伊藤先生がネパールで映画を制作したという記事を読んだのですが、そのきっかけとか、意図などについてお話を聞かせていただけますか。

(伊藤)映像制作を地域へ展開させようという考えから、2004年から3年間、千葉のさまざまな話題を映像で紹介する自主制作テレビ番組『情報大ステーション』(全78話、千葉テレビより放映)に取り組みました。
 その中の1本として、千葉県立市川工業高校の先生と生徒たちが、ネパールの伝統的街並み保存活動に取り組んでいることをとりあげ、同校の先生方に現地での撮影を依頼し、こちらで編集して番組をまとめました(『ネパールに届ける高校生の技術』14分、2005年10月15日放映)。この番組が大変印象的だったので、その後、私自身も同校の生徒たちと一緒にネパールに赴き、ドキュメンタリーを撮ってきました(『市工生ネパールを行く』50分、2007年5月完成)。こうしたきっかけで、私とネパールのご縁が始まり、2007年3月、こんどは現地のプロの映画スタッフたちと組んで、『KATHPUTALI : The Angel of the Himalayas(「カタプタリ〜風の村の伝説〜」)』という短編劇映画(51分)を製作・監督することになったのです。
 ネパールの山村に降りてきたヒマラヤの妖精が、幼い主人公の心の中に、村の伝統的な暮らしや文化の価値を大切にしなさいというインスピレーション(映画では、これをプレラナ〈霊感〉と表現しています)を授け、主人公は成人してから、その大切さに気がつくというファンタジーです。伝統的な暮らしや文化のなかにこそ、私たちが生きていく「よすが」があるのではないかということを、ネパールを舞台として世界の人に伝えたいと思ったことが、この映画を制作したねらいでした。
 言葉や習慣の違う国に行っても、『情報大ステーション』で培った地域映像に対する方法論が通用するという手ごたえを感じることができました。「映像」は人類の共通言語であり、地域を出発点として世界へ同心円状的に広げていけるものであると考えています。  

(松田)ネパールでの映画づくりのきっかけとなったテレビ番組「情報大ステーション」を制作した、大学の映像制作ゼミの背景とか考え方について、少し詳しくお話いただけますか?

(伊藤)ゼミでの映像制作は、私が教員になって以来10年間続けています。
 情報文化学的(メディア・リテラシー的)観点から、学生に映像制作を実践中心に学ばせるという試みは、ここ5年ほどで全国の大学にかなり普及してきたものだと思います。
 「情報文化学」という言葉の概念に対する一般の方のイメージは確立されていないように思いますが、私はそれが成立した流れを次のように捉えています。まず、芸術や娯楽・マスメディアといった、いわゆる「文化」に情報化革命が起こり、「情報化社会」が出現して「文化の情報化」が起こりました。次に、携帯電話を含め、コンピューター同士がインターネットで繋がれ、情報機器が日常生活と切り離せなくなり、「文化」としか形容できないものに変化しました。つまり「情報の文化化」が起こったのです。
 そして「文化の情報化」と「情報の文化化」が交差し、「情報」が、文化や生活、芸術をも含んだ、「やわらかいもの」として解釈されるようになってきたのです。
 情報テクノロジーの発展が人間生活を圧迫し、人間性を喪失させ始めると、「情報」から人生の豊かさや真の幸福を享受するための方法が模索されるようになり、その結果、情報文化学的なアプローチが情報産業・情報学に切り込みをかけているのです。私のゼミにおける映像制作活動も、そのような情報文化学的な取り組みのひとつとして、映像情報を、地域の幸福、社会的な幸福に役立てていきたいと考えているものです。

(松田)映像制作ゼミは、単に映像づくりとか映像利用の技術だけを学ばせるのではなく、もっと大きな情報文化的な目標を目指しているわけですね。具体的には映像制作のゼミを通じて、何を身につけさせたいと考えていますか。

(伊藤)学校における「勉強」は、ふつうは学校の敷地内で完結してしまいます。大学の中にスタジオがあれば、映像表現の方法やカメラやパソコンの使い方は学ぶことができます。しかし、それはあくまでも学校の中に留まる「勉強」であり、私はそれを学ぶだけでは意味がないと考えています。
 学生は下宿先の地域社会について、まったく無頓着なまま大学生活を送っています。そこで私は、カメラを持って地域に行き、撮影させてもらってきなさいと学生たちに言うのです。「映像」とは非常に具体的なものですから、地域にカメラを向けようとすると、必然的に学校の外へ出て行かなければなりません。
 学生たちは戸惑いながら地域に赴き、苦労しながら撮影してきます。そうすると、自分のスキルの未熟さに気づくと同時に、地域社会を支える大人の営みに感銘を受け、自分自身も地域社会に育まれて成長してきたことに気がつくのです。
 例えば、それまで騒音としか感じていなかった地域のイベントでも、自分自身が運営に参加して、活動記録の番組を制作すると、いかに裏方で多くの人々が長い時間をかけて苦労しているかを実感することができ、見方が変わります。そして自らの自信に繋がる達成感を得られるとともに、地域の人々への尊崇の念も芽生えるのです。地域社会の力を借りて成長していく、それが本当の、大人へのなり方ではないでしょうか。これは学校の中にいては教えることはできません。私は、そのような人間的な成長のきっかけを、映像制作を通して提供したいと考えています。
   また、このように地域に入って「映像」を制作するとき、カメラやパソコンは一種の「おもちゃ」として機能すると私は考えています。突然「話しを聞かせて下さい」と訪ねて、地域の人と生身で話をすることは難しくても、「こういう番組を作りたいんですが」ということをとっかかりにすると、垣根がちょっと低くなります。つまり、カメラという「おもちゃ」を触媒にして、さまざまな出会いが作り易くなるように思うのです。
 私は、映像表現を学ぶことをきっかけとして、学生たちが地域社会の人々と接し、コミュニケーション能力を身につけながら成長していって欲しいと願っています。逆に言うと、テクニックだけの映像を学んでも意味はないと考えているのです。

(松田)
ゼミでの映像制作は、地域社会との接点となり、人々とのコミュニケーション能力を育むというわけですね。具体的にはどのように連携して行ったのですか。また、実際には地域の人々とゼミの制作スタッフとの関わり方はどうでしたか。

(伊藤)地域活動に「映像」という一つの「おまけ」があると、より地域の結束がシンボル化されます。地域活動の記録としても残りますし、なにより地域の人々に自分たちの活動が映像化されたことを喜んでもらえます。
 以前、地元の商工会議所青年部が主催する地域の音楽コンクールの番組制作の依頼を受け、30分の番組にまとめて、千葉テレビで放送を行ったことがあります(『輝け!明日のスター!ザ・スターオーディション2005』30分、2005年11月3日放映)。地域の方々が、地元のイベントに学生を参加させなければならないという教育的な観点をお持ちで、わざわざ学生に声をかけて下さったのです。
 テレビ放映を終えた後、学生と青年部の人たちが一緒になって、その番組を上映しながら打ち上げ会をやったのですが、番組の最後に青年部のスタッフの名前が何十人も字幕で映し出されると、宴席は非常に盛り上がり、その光景を見て、ディレクターを務めた学生も感激して涙ぐんでいました。地域活動の中に実際に入り込んでいくことで、地域社会に生きる喜びを実感できたのだと思います。
 このような地域における映像制作は、数年経って、卒業生から「かけがえのない体験でした」とフィードバックされることもあり、大筋は間違っていなかったように思います。
 卒業生の約1/3は映像業界へ就職しますが、2/3はプロにはなりません。しかし、彼らが将来、地域に還ったときに、学生時代の原体験は地域のイベントに(それが映像とはまったく関係なくても)参加する気持ちを起こさせるきっかけとなるでしょう。地域と没交渉ではない人生、その選択肢を生み出せるところにも、この取り組みの意義はあると思います。

(松田)地域の映像作品を作り上げるなかで、作品の背景となる地域社会の実情を学ぶことは大きな意味がありますね。具体的な映像制作の話に入りますが、実際に映像づくりをする上で、欠かせない要素や、求められる能力としてはどんなことが挙げられるでしょうか。

(伊藤)映像番組を制作するうえでは、次の3点に気をつけています。第1に、情報として正確であること。第2に、そこに作り手としてどんな思いをこめているのか、ポリシー(社会的な正義観や倫理観も含みます)がなくてはならないということ。第3に、視聴者の「感性」に訴える力があること、です。正確に事実を伝え、正しいポリシーを有していても、エモーショナルな面白さや楽しさが感じられない映像は、やはり伝わらないものになってしまいます。エモーショナルな部分を演出として入れることも大切だと思っています。
 Information・Policy・Emotional、この3つのバランスが、映像表現にとって重要であり、どれか一つが欠けた状態で成り立つことはありえません。
 映像から感銘を受けるときにも、この3つを同時に受け止めているし、表現者もその3つに照らして、自分の映像制作が的を射ているかチェックできます。どれか1つに力を注ぐのではなく、つねにこの3つに気をつけなければならないと思います。
 実際に映像制作をしてみると、なかなか思うようには捗りません。映像制作にはすべて具体的な行為を伴うため、目標の実現には綿密な計画や準備が必要となります。プロダクションとしてマネジメントする能力がとても重要になってくるのです。
 映像とはある意味でイメージの産物ですから、作り手にはそんな自らの「思い」を具体的な仕事のレベルにいったん分解し、その後に再構築していくという能力が求められます。具体的な作業に一つずつ落とし込み、スケジュールを立て、実行していかなければなりません。映像表現というとクリエイティブなものに思われがちですが、作業そのものは非常に具体的で雑務的な仕事の連続で、それを計画的かつ粘り強く実行していく力が必要です。「自分の想いを具体化する力」を鍛えると同時に、その方法論を熟知したうえで、機材等の維持管理も行えることなど、「創造性」と「実務的能力」が同時に求められるのです。

(松田)映像制作の基盤となる部分が見えたような気がしますが、特に制作者が気をつけなければならないこととは、いったい何でしょうか。

(伊藤)学生に映像制作の方法を教えていると、見栄えのする映像作品を制作するには、ある一つのスタイルに落とし込めば、そういった番組がすぐに出来てしまうということが経験則でわかるようになります。しかし、ここに、メディアの表現者としての大きな落とし穴があるのです。
 私は学生に映像制作を教える際、いつも最初に見本を提示していました。ある日、学生から「先生のテンプレートについて…」と質問され、自分は、学生に映像をテンプレートに落とし込むテクニックを教えているに過ぎないのではないか、学生に「ねらいが弱い」「構成が弱い」など助言しているのは、自分の中にあるテンプレートに沿って判断しているに過ぎないのではないかと感じました。
 この問題意識に基づいて制作したのが、『ニュースの構成〜2つのテンプレート〜』(2009年、12分)という映像教育用教材です。この教材には、まったく同じ素材を、AとBの2種類のテンプレートに当てはめて構成した約2分のニュース番組が収録されています。Aには里山に住み着く野生動物に餌付けをする心優しいおじさんが描かれ、Bには田畑を荒らす野生動物の被害が住民から告発されるという内容です。つまり、同じ事実にカメラを向けても、最初に「ねらい」を決めつけてしまうと、その方向に沿った番組にしかならないということです。制作に慣れるほどにその傾向は顕著となり、実際に取材に行っても編集に都合の良い素材ばかり集め、テンプレートにあてはめて、間に合わせのコメントを付ければ見栄えのする番組を作れてしまうのです。
   そんな安易な表現力を学ぶことが、映像教育の目的であってはならない。教師は学生に、よくできた映像にこそ、裏に「落とし穴」があることに気がつかせ、世の中の真相を読み解く眼を養い、意識を高めていくことに、力点を置かなければならないと感じます。
 機器の操作方法や編集のテクニックを教えるよりも、社会的背景や目前の事象を虚心に見つめ、そこに赴いて体感し、どうすべきかを考えられる、”真の知“ に目覚めた表現力を備えた若者を育成していくことが今後の課題であろうと思います。

(松田)映像表現の問題点や課題点を克服するには、一般市民にもメディア・リテラシーが一層醸成されることが肝要だと思われますが、今後、メディアの位置づけは社会の中でどのように変化していくと思われますか。

(伊藤)私は、昨今では映像編集過程を知る人が増えてきたことで、一般市民のメディア・リテラシーは向上しているように感じています。映像のメッセージが、テロップ・ナレーション・BGMなどによって誇張されていることに、一般市民も気づき始めていて、もはや漠然と映像から印象を受けとめているのではなく、制作者の演出テクニックというものを意識的に観察している時代だと思うのです。
 市民の意識が向上して、マスメディアに対する目が厳しくなったことで、演出過多な番組は批判される対象となっています。そういった変化にテレビ局自身が一番気づいていないようにも思えますが。
 昨今、「テレビ離れ」の傾向が指摘されていますが、単に刺激的なだけの情報に振り回されることなく、市民が新しい方向を目指すことは大切です。それは良質な番組を賢く選択するということかもしれないし、あるいは、映像から離れて、地域での実践活動に取り組むことかもしれません。そのことで、全体としてのメディア接触における映像の割合が低下したとしても、それは正常な流れでしょう。一昔前、皆が1日平均3時間強もテレビに吸い付いていた時代からは徐々に脱皮していく必要があります。そういった見直しが進むなかで、いわゆる”メディアの権威“ の低下は、今後も加速されていくと思います。

(松田)メディアの多様化やデジタル化の進展は、映像制作をどのように変えようとしているのでしょうか、また今日のメディア環境の抱える問題点についてはどういったものでしょうか。

(伊藤)メディアが多様化しても、映像作品を最初から終わりまで通しで見て、そこから感銘を受け、動機づけられたり審美性が育まれたりするという、基本的な映像メッセージの機能は過去からも変わっていませんし、将来も変わり得ないでしょう。
 ただ、テクノロジーが発展したことで、16ミリフィルムの時代には考えられなかったような使い方ができるようになり、「利便性」という点では明らかに変化して来ました。例えば、レーザーディスクが登場したとき、チャプターごとにアクセスできるようになったため、映像もチャプターごとに活かせる構成に変化するなど、教室での利用方法を意識したソフトが生まれました。そういう理由や目的のために映像表現方法が変わってくるのは当然であって、変わって良いものだと思います。
 いっぽう、現在では、YouTubeの一部のコンテンツに見られるように、他人が制作した映像を恣意的に加工して匿名で発信するといった問題が生じています。私はこのような行為に人間の欲望や本性がむき出しにされた、「負の側面」を垣間見るような気がします。
 ただ、正の部分が正しくて、負の部分が誤っている、という単純な構図ではありません。両者の在り方を知って、バランス感覚を保つことが大切であって、人間の本性に合致してしまう部分があれば、一般公開に耐えないような「負」の映像が溢れてしまっても仕方の無い側面もあるように思います。両者を明確に線引きすることは不可能であって、それを丸ごと受け入れていくことしか出来ないでしょう。その意味では、映像メディアのあり方というのは、国民性・文化・社会モラルといった、いわば民度の鏡なのだろうと思います。
 デジタル化の進展は、”個“ の時代を進化させたように感じています。地域や家族との結びつきを断って、ネットワーク社会の中だけに生きている人間がいます。それはいけないことではありませんが、人間をそこまで引き擦り込んでしまう何らかの「魅力」があるわけです。
 私はその「魅力」を、地域へゆり戻すことが出来ないかと考えるのです。社会や家族の絆の分断が進んだために、「メディアを活用した地域の絆の再生」が主張されるようになったとも言えます。逆説めきますが、社会の絆が保たれていれば、地域にメディアを持ち込む大切さに気がつかなかったかもしれない。そういう点では、10年前よりも現在の方が、より人々からのニーズは高まっていると思います。
 以前、千葉市美浜区の団地の中のCATV局を取材したことがあります。このテレビ局は住民有志によって自主的に運営されているのですが、スタッフの方が、「自分自身が運営に参画することで、団地生活の意味合いや価値観が変化した」「番組を作ることが生きがいになった」とおっしゃっていたのが、とても印象的でした。こうした例からも、メディアに関わる体験を通じて、人々の人生は、確かに豊かにふくらむものだと思えてなりません。 
 そうした地域活動で、中心的役割を果たせるのが、社会教育関係の方々でしょう。社会教育関係の職務に携わる方々のお仕事というのは、地域に住む人々の人生を豊かにし、価値観を変える「きっかけ」を提供できるお仕事ではないでしょうか。地域における映像番組制作が、その有力な「きっかけ」の一つにならないでしょうか。その成果は作品として残るだけでなく、多くの人々を豊かにする大切な活動となるのではないかと思います。

■インタビューを終えて
 今回は、地域の視聴覚教育や社会教育の指導者の方々にぜひ読んでいただきたいと感じた。つまり、映像制作の活動そのものが地域の絆となりうるというご指摘と、実際の映像制作に際しての大切なポイントの話は、地域映像を自作する者にとって心しなければならない重要な示唆をいただいた。
 多様化するメディア環境の中で、映像制作者や利用者それぞれの戦略や能力が問われていることは日ごろ感じていることであり頷くものがあった。(松田)

◆えすけーぷ

◆調査研究が始まり、3つのテーマに基づいて専門委員の方々が現在資料収集に奮闘中という所です。
 全視連の調査研究は、厳密な意味での研究とは言えず、むしろ国内でのテーマに関わる優れた事例情報の提供やアンケート調査から傾向を明らかにして関係者の皆様に報告するものと考えて頂きたいのです。
◆各地で研修会が行われています。
 視聴覚教育関係施設は、利用をサポートする立場ですから、担当者や関係者は今日のメディア利用や環境について、しっかりと研修しておく必要があると思います。
◆今月号はキーパーソンに聞く特集という形になってしまいましたが、地域映像作品の制作について傾聴すべきお話が聞けたと思っています。
 どうぞよいお年を!(m)

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